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1-9

川柳  連歌の付句からの発生、発句の俳諧のくずれとも、狂句。

 戦国の時代が終わり、徳川の江戸幕府が定着して上方の商人が移り住み、
江戸の町家、日本橋界隈から神田、上野、両国、浅草へと形成されていく、
 広がる町家の裏に職人の長屋がひしめいて、自ずと活気のある城下町が
出来るがその範囲は狭く、江戸の大半は江戸城を含め武家屋敷で占められ
武士の都であった。
 日頃は武家屋敷への奉公や普請、
手伝い、商いの出入りで世話になって
生計を立てているのだが、大商いの商人は別として大半の江戸っ子と呼ばれるのは
武士に対して反抗的な面があったと思われる。
 江戸の文化は武士の文化なのかと言うと、殆どが町衆のもので、基本的には
全国からの参勤交代で複合文化であるが、大きく影響を与えたものは
上方文化であるといえる。ただ処変われば品変わるで変化はあります。
 上方のにわか俳諧が、東海道を経て狂句、戯れ句、邪れ句、茶番と呼ばれて
江戸の町衆に伝わりますと、処変わればのとうり江戸特有の言葉の切れ、
言葉遊びが洒落を呼び多種の句を展開してゆきます。
 土臭さなく、シャイで語呂合わせよく、リズミカルな五七五になってきますが、
前述のように武士の多い江戸の町なので武士への批判、中傷が入り
 江戸っ子気質を詠い込んだり、武士を仲間に入れない江戸っ子だけの
句の社会を表現するなどに発展していく…‥…
 浅草の名主であった『柄井川柳』が点者となって作られ集められたのが
「古川柳」その後二代目川柳が襲名して後、集録されたのが「江戸川柳」と
呼ばれるものである。
 この場合本来連歌俳諧の前句付けの中でも「転句」と称される類で、連歌が
続く中、今までの流れをからりと変え、意表を突く句の体を持たせるもので
なければならないとか、狂句でであってはならない等と主張した。
 むろん駄洒落を禁じたり、語呂合わせ、言葉重ね、謎解き、言葉遊び等
認めない「きまり」「禁句」が出来てきた。
 これらが場所によって限られた川柳の枠をこしらえたりして、吉原川柳、
 品川川柳、佃川柳、明神川柳、柳橋川柳を生む。
時代が変わって「川柳柳樽」の編纂や新川柳として「かわらばん」に
 社会批判、風刺の時事川柳が出現してくる。
最近では、サラリーマン川柳。家庭川柳。温泉川柳。方言川柳等と
区分化され『柳壇』と言うエリアまで発展している。


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